心ひらけば“世界”はもっともっと美しくなる | ともむすび

ここ最近は、
アート…表現に触れる日々でした。


笠原美智子さんの著書
“ジェンダー写真論 1991-2017”で
作品はもちろん
信念や人生にも魅かれた、
アナ・メンディエタ氏と
イケムラレイコさんの
展示会があると知り、
それぞれ行ってきました。


“どこにも属さないわたし”
というタイトルにも共感し、
イケムラレイコさんの展示会は
本を読んでからの鑑賞となりました。


アートに対して、
知識や経験もないため、
自分には見ても分からない
縁遠いものだと思ってしまい、
それで余計に
距離を置いてしまっていました。


それが、
柳宗悦氏の“直観”について
知る機会を得てから
少しずつ変わりはじめ…


民藝館に行った後には、
「自分も、
うつくしさを感じられた!」と、
感じられていることを
知れたことに喜び、
まずは頭じゃなくていい、
自分の心と、
対峙する作品…
それらに対して
感じるがままに委ねていいんだ
ということを体験することができました。


それ以後はなんだか
「素敵だな」「うつくしいな」と感じる
対象が広がってきたのと、
自分も
表現したいな…というよりは、
エネルギーを対象に注ぎたい!
という思いに駆られるように。


今回も観てまわりながら、
作品(特に“自然”に纏わるもの)の
エネルギーに共鳴してか
奥底にある熱が言葉をもたせ、
それを書き留め続けていました。


ここ数日間、
“閉じている”状態が
自分を盲目にさせているということに
気づけたのも大きな収穫でした。


人が怖くて殻にこもり、
人の目を気にするが故に“自分”がなかった。
傷つくのを恐れて
“感じる”こと自体も抑えていた。
それも、長いあいだ。


“うつくしさ”は
そのまま“うつくしさ”として
そこに在ってそれを発しているのに…
感じることを放棄し、
緊張を保った心や
正解を求めようとするエゴが
内なる心を覆っていたがため、
受け取ることができなかった。


幼少期を、
イケムラレイコさんと同じく
安心感を感じながら
過ごすことができなかった自分。
恐怖と不安と罪悪感でいっぱいだった。
守ってくれる人がいない…
ある日、
孤独のつらさで記憶にも一部
蓋をしてしまっていると聞いたときも、
合点がいった。


それが
自分でも実感できるくらい変われたのは、
出来事や人との出会い、
自然との関わりが、
心をほぐしてくれたからなのだと思う。
まるでそれらが、
「こっちこっち!」と
もとの自分の人生に
自分を戻してくれたかのように。


自分の自慢できるところは、
人に恵まれていることだと心底思う。


正解なんてないのに
間違っちゃいけないって思ったり、
迷惑かけちゃいけない、
違っちゃいけない…
違うのが当たり前で自然なことなのに
自分にダメ出しばかりしてきたなか、


「自分でもいいんだ」と思える
出来事や人との出会いによって、
やっとリラックスして生きられるように。


出会いに
本当に感謝の気持ちでいっぱい。


やっと自分の人生…って思うけれど、
実際には
気づきの布石は
いくつも並んでいて
(自分で並べてきていて)、
点在していたものが線になるー。
だから、
すべて必要なことだったのだと
過去の経験を受け容れられる。


劇団四季の“Cats”も
ついこの間、初鑑賞。


それぞれの表現をあわせて
みんなで創り上げる世界に
目を見開き
まばたきを忘れるほど興奮しながら、
ストーリーでは、
かつて娼婦だった
グリザベラがみんなに蔑まれ
避けられてしまう場面で涙。


そして、元人気役者のガスが
「昔はこうだった…」と
哀愁を漂わせながら回顧する場面では、
切なくなりながらも、
そう思い返すような人生には
したくないなとも思った。
“いま”が一番いい!って感じながら
今ここを生きていたいから。


どっちが先かは分からないけれど、
心を開くことと
感じる(受け取る)ことー。
“うつくしさ”の循環に
自らを置き続けたい。


数々の
魂のこもったアートに
気づかせてもらえた事柄から、
またアートの力を感じられました。


自分も、
自分という生き方で
安心感を与えられる存在になりたい。
自分が大切にしたいものを大切にし
それを生き方で表現していきたい。
それが、“生きる”
ということなのかなとも思うから…。


たとえ
また困難があったとしても、
自分の人生を信じてがんばろう。


生かされていることに謙虚に、
生きることに貪欲に。
感謝の気持ちを忘れず、
精一杯
“自分”を表し生ききろう。
心の在り方、即見える(生きる)世界でー。


出会ってくださり
ありがとうございます(^^)